スティックパンの誕生
歴史背景
「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」について
代官名を江川太郎左衛門、名を英龍、号を坦庵。
江川太郎左衛門英龍(坦庵)
- 1801年(亨和元年)5月13日、韮山代官屋敷に生まれる。
(父第35代英毅次男、幼名芳次郎、のち邦次郎にあらためる。1821年6月、兄英虎(倉次郎)病死。) - 1822年頃から西洋砲術、蘭学を学びはじめ、1823年旗本北条左衛門の娘と結婚。翌年代官見習となる。
- 1835年(天保6年)父死亡により第36代韮山代官となる。支配地は伊豆の国、駿河の国(静岡県)、武蔵の国(東京都・埼玉県)、甲斐の国(山梨県)、相模の国(神奈川県)の5国。高島秋帆から砲術を学び海防を唱える。
- 1842年(天保13年)パンの製造や反射炉で試験的に大砲鋳造をはじめた。他に、オランダ語、測量、種痘、農兵、外交、政治、経済に数多くの功績を残している。
- 1853年(嘉永6年)海防の第1防備線として品川台場を築造し、翌1854年に伊豆韮山で本格的大砲を鋳造する反射炉築造に着手。
- 1855年(安政2年)1月16日反射炉完成を待たずして死亡。(反射炉は国の重要文化財に指定)。長男英敏が第37代韮山代官となり、1857年(安政4年)7月1日溶解テストに成功、翌3月30日韮山反射炉製18ポンド大砲の試射に成功した。
その後、幕末の国防はもちろん、科学・技術の発展に多くの貢献をした。 - 1868年(慶応4年)伊豆・武蔵17万石余をもって韮山県を構成。第38代英武が県知事となる。
兵糧としてのパン
坦庵最初の門人は、1842年(天保13年)佐久間象山の入門である。砲術稽古を主に、教授の中心が韮山となっていた。これが韮山塾の形成である。
オランダの兵法書で学んだ西洋式の軍隊の訓練や、鹿狩りをしながら何日もかけて山野を移動する事があった。そんな時、夏場は腐りやすい握り飯であるので、移動する先々で炊飯をしなければならなかった。「本当の戦いだったら、敵にすぐ見つかってしまう。煙を出さず、いつまでも腐らない食べ物はないだろうか。」と考え、西洋のパンを思いついた。
オランダの書物を調べても製造法はわからなかったため、江戸詰の柏木総蔵に指示して、高島秋帆の門下生でオランダ商館の料理人だった作太郎に、製パンの技術を学ばせた。
お手紙を拝見いたしまして、さっそく、作太郎に会ってまいりました。
パンを作るには、うどんや饅頭のもと(小麦粉のこと)で作るのが普通です。もっともさらに美味しくするため、卵や砂糖も入れることがあるそうですが、それは長崎の者が工夫した事で西洋では、麦を粗く挽き、それに塩を少々入れて味をつけ、焼き上げるようでございます。それが普通に食べるパンだそうでございます。
その焼き方はなかなか難しいことでございます。まずは、厚さ7寸(約21センチ)もある切り石を積み上げて、薪を20ぱもくべられるほどの大釜を築きます。その上に土をよく塗り付け、一方に小さな口を開けます。その口から薪を20ぱ入れて、およそ半日燃やし続けます。
かまどが充分熱くなったところで、火を残さずかき出し、その後へ、粉をねった生のパンを入れ、口をふさぎます。空気が入りませんので、焦げる心配はございません。熱い釜の熱で真中までふっくらと火が通り、水気もまったくなくなります。
こうして作ったパンは1年くらいは持つということでございます。長崎ではすでにこのようなパン釜を2つ作り、火事があったときなど、火けし達の食用にしているとのことでございます。
パンの大きさは、厚さ3分(約9ミリ)さしわたし3寸(約9センチ)ばかりです。それを一度に1つ半、大食の者は2つ食べ、その後に、お茶や水を飲みますと、おなかでよく膨らみ、腹持ちがいたしますので、大変便利だという事でこざいます。
しかし、このパン釜は、炭焼き釜と同じほどの大きさなもので、すぐその場で作るわけにはまいりません。作太郎はそのうちに、熱海の温泉に湯治にまいるということでございます。
その時に韮山までまいりまして、お目どおり願いたいと申しております。
柏木総蔵 拝呈
この製法により、韮山で兵糧としてのパンが試験焼きされたのが1842年(天保13年)4月12日の事である。
現在この日がパンの日になっています。
発足当時の状況
『パン祖のパン』再現
静岡県パン協同組合青年部会長で、韮山町の学校給食にパンを納めている石渡食品(有)石渡浩二氏はパンの歴史を研究しており、パンが焼かれて150年を記念したイベントを考えていた。一方韮山町ではリーディング・プロジェクト「歴史の玉手箱」計画を策定。地域学習ソフト(歴史学習ソフト)のメニューづくりを進めていた経緯もあり、食文化史の体験ソフトとして両者協力のもと静岡県『地域づくり活性化事業』の補助を受け、『パン祖のパン』は再現された。
『まちづくり会議』との関係
リーディング・プロジェクト「歴史の玉手箱」計画の検討やまちづくり関連の提言を行なっている町民有氏で組織されている「まちづくり会議」を中心に、反射炉、地区祭り、産業際など町内外での試食販売、シンポジウムでのPRを展開している。また学校給食として子供達へも提供している。
『パンのネーミング』
「パン祖のパン」は、パン祖坦庵にちなみ命名(石渡食品と韮山町企画)
平成6年1月の産業際において、パン祖のパンをアレンジしたもの(当時6角形だった)の名前を一般募集し、応募13名、募集点数16点であった。選考委員会(石渡・大川・師岡・吉村・成田)にて将来性とユニークさ、そして当プロジェクトの趣旨が現されているものとして決定した名前は《パン「日本発」はじめて物語》となった。(採用:韮山町原木 吉村明美)この名前は後の「カノンパン」のラベルにつけられている。
「カノンパン」は大砲(カノン)から命名。
『スティックパン』の誕生
「パン祖のパン」の特長で、健康食品として、また保存性が要求される防災用食品として最適である事に着目し、土産物用の「カノンパン」、防災用の「スティックパン」を開発。成分は「パン祖のパン」と同じ、形状をより食べやすいスティック状に工夫してある。
防災用食料の「スティックパン」は、より保存性を高めるため、アルミ蒸着の包材を使用し、賞味期限を7年に出来た。
防災用保存食「スティックパン」の賞味期間について
食品の劣化は、通常、常温において細菌活動によるものと酸化の進行によるものに分類されますが、一般的にいずれも下記の4つの要素で進行すると言われております。
- 水分、湿気
- 栄養素、食品固有の劣化しやすさ
- 温度
- 酸素
また、一般的にこれら要素のいずれか一つを不活性状態に保てば、食品の劣化は進行しないと言われております。
スティックパンの場合、これら4つの要素については下記の様になっております。
- 水分、湿気
- 栄養素、食品固有の劣化しやすさ
- 温度
- 酸素
パンの焼き上げの工程が通常のパンに比べ相当長いため、パンの中に残留する水分量が7.4%(重量比)と大変少なくなっています。(通常パンは20~30%)
また、乾燥剤を包装時に封入しており、この乾燥剤によって残留水分はさらに抑えられるようになっております。
使用しているアルミ蒸着の包装資材は、透湿度0.9cc/m2/24hとなっています。
食品である以上栄養素をなくすることはできません。スティックパンは370キロカロリーの栄養素を含みますが、これは一人の一食分の主食栄養素に対応させてあります。
自然食としての側面もスティックパンは持っていますが、これは使用原料が国内産小麦全粒粉、天然塩、米糀による酒種発酵物の3つのみという事実に起因します。
スティックパンは他社のカンパンに含まれている油脂(非常に劣化しやすい)を使用しておりません。
直射日光の当たらない室温での保存をお願いしている以外には特別の事は必要ありません。
スティックパンの場合、酸素を断絶しておりかつ水分も低レベルに抑えてありますので、劣化は起こりにくい状態になっておりますが、高温を避け直射日光の当たらない室温保存をお願いしています。
脱酸素剤を包装時に封入しており、この脱酸素剤によって残留空気中の酸素は吸収されるようになっております。
使用しているアルミ蒸着の包装資材は、酸素透過度1cc/m2/24hとなっています。
以上の4つの要素を食品そのもの、包装資材、封入する乾燥剤、脱酸素剤の仕様より科学的に分析した結果、7年間は劣化を抑えられると考えております。(3年前に製造した姉妹品については、特別の包装/保存を施していない現在でも食品として問題なく食することができています。)